コピーのコピーが作り出す未来

 最近RSSリーダーでいろんなニュースを見るのが趣味です。
 その中で、今日こんな記事を見つけました。
 「過激でないと革命は起こせない」――そして「電脳フィギュア ARis」は生まれた (1/2) - ITmedia NEWS

「過激に狂ってないと、革命は起こせないですから」――ゲームベンチャー・芸者東京エンターテインメントの田中泰生社長(32)は「極端に振り切ったインパクトがあるものが好き」だ。

 これを読んで、どこかでこれと真逆の主張を読んだ気がしたと思ったのですが、富野由悠季監督のインタビューでした。

 CGというのは絶対に、触れないわけです。触感も匂いもないわけです。映画というのは、映画的な機能が持っている重要なのは、「触感があるかもしれない、触ったかもしれない、ぞくっとするかもしれない」という体感を感じさせる物語を付け加えられるのが映像の機能なんです。


(中略)


 客が見たがってるのは何なんだろうかというとき、知った風なモブシーン(群衆が登場するシーン)も、爆発シーンも、人間が飛ばされるようなのも見飽きてるでしょ。見飽きてるのになんでやるの?


 それ以上のことを思いつくクリエイターがいないだけの話です。だからそれをやればいいだけです。だからといって死体ギンギンの映画がいいのか? それが生々しいということではないんですよ。物語ですから。映画ですから。デジタル画像で作る物語というのはどういうものか、改めて自分の中で反問していただきたい。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0810/31/news118_3.html

 「お前らの作品は所詮コピーだ」と言いつつ単なる過激を否定して10年後に評価される物語を重視する富野監督と、コピーならば過激じゃないとイノベーションは起こせないという思想から生まれたARis。個人的には10年後に現在進行形で評価されているものは「過激でコピーのARis」のコピーなんじゃないかと思ったり。物語が無くてもユーザーの嫁になればいいという過激さを、富野監督はどのように考えるのか聞いてみたいところです。すごく機嫌を害しそうなので私はやりたくありませんが。

 生身が匂わなければ、臭くなければ絶対に客は付かないんですよ。

 これだけ技術が発達したにも関わらず、ライブの演奏会や演劇が絶対にすたれないのは一体どういうことかということも思い出してほしい。デジタルワークの時代にそういうものをどう手に入れるのか、どう表現するかは、技術を手に入れたわれわれの永遠のテーマなんです。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0810/31/news118_3.html

 富野監督の言う「匂い」の行方は、ARisのコピーが握っている……かもしれません。